【2024年5月の神社ツアー⛩は那須湯泉神社】

【5月の神社ツアーは、栃木県那須】

 

 

2024年5月の神社ツアーのお知らせです。

 

行き先は

 

栃木県

那須湯泉神社⛩

(なすゆぜんじんじゃ)

 

 

日時

2025年5月21日(火)

午前9時

鳥居下県営駐車場 30台(無料)

駐車場🚗集合

 

参加費無料

 

【由緒】

上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に

十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く,奈良朝時代の貴族の

温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。

従って神位次第に高まり,貞観11年(869年)に従四位上を授けられた。

後世那須余一(与一)宗隆西海に扇の的を射るに当たり,

当温泉神社を祈願し名声を轟かして、那須郡の総領となるや

領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)

6月19日正一位に叙せられた。

現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみれば

いかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。

 

【御祭神】

大己貴命(おおなむちのみこと)

少彦名命(すくなひこなのみこと)

誉田別命(ほんだわけのみこと)

ホームページより。

そして、この湯泉神社の奥には、

殺生石

があります。

 

この殺生石には九尾の狐伝説があります。

最初は藻女(みくずめ)と呼ばれたとされ、子に恵まれない夫婦の手で

大切に育てられ、美しく成長した。

18歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって

玉藻前(たまものまえ)と呼ばれる。

その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛されるようになった。

しかしその後、上皇は次第に病に伏せるようになり、朝廷の医師にも

原因が分からなかった。

 

しかし陰陽師・安倍泰成が玉藻前の仕業と見抜く。

安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、九尾の狐の姿

(『玉藻の草子』では二尾の狐として描かれている)で

宮中を脱走し、行方を眩ました。

 

その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの

行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主

那須権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成。

三浦介義明千葉介常胤上総介広常将軍に、陰陽師・安部泰成を

軍師に任命し、軍勢を那須野へと派遣した。

 

那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は

すぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の妖術などによって多くの

戦力を失い、失敗に終わった。

 

三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた

犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始する。

 

対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を

追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ

許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、

最後の攻勢に出た。

 

そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、

上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。

 

その後、九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や

動物等の命を奪うようになった。そのため村人は後にこの毒石を

『殺生石』と名付けた。

 

この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。

鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と

倒れたが、南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、

破壊された殺生石は各地へと飛散したといわれる。

 

玉藻前の経歴は中国古代王朝殷(いん)まで遡る。

殷の最後の王であるの后、妲己の正体は齢千年を経た九尾の狐であり、

王の妾であった寿羊という娘を食い殺し、

その身体を乗っ取って王を惑わせたとされる。

 

王と妲己は酒池肉林にふけり、無実の人々を炮烙の刑にかけるなど、

暴政を敷いたが、武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。

 

またこの処刑の際に妲己の妖術によって処刑人が魅せられ首を切ることが

できなくなったが、太公望照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、

九尾の狐の正体を現して逃亡しようとした。

太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は三つに飛散した。

しかしその後、天竺摩竭陀まがだ王子斑足太子はんぞくたいし

妃華陽夫人として再び現れ、王子へ千人の首をはねるように

そそのかすなど暴虐の限りを尽くしたが、

耆婆(きば)という人物が夫人を魔界の妖怪と見破り、

金鳳山中で入手した薬王樹で作った杖で夫人を打つと

たちまち九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去って行った。

 

周の第十二代の王、幽王の后、褒姒も九尾の狐とされる。

褒姒がなかなか笑わないので、幽王はさまざまな手立てを使って

彼女を笑わそうとし、ある日何事もないのに王が烽火のろしを上げ、

諸侯が集まったという珍事に初めて笑ったといわれ、

それを機に王は何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても

出動することが無くなり、後に褒姒により后の座を追われた申后の

一族が周を攻めたとき、王は烽火を上げたが諸侯は集まらず、

王は殺され、褒姒は捕虜にされたが、いつの間にか行方知れずと

なっていた。後に若藻という16歳ほどの少女に化け、

吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、来日を果たしたとされる。

 

という何とも歴史の深い九尾の狐が封印されたとする、

殺生石にも行きます。

その後は、移動して隕石の歴史にまつわる神社を訪れる

予定です。

 

 

このイベントは

自由参加、自由解散です。

ご自身の都合で、離脱して頂いて構いません。

 

あなたのご参加お待ちしてます。

 

 

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